人は人を救えない

「どうしても救ってあげたいんです」

そういう気持ちをお聞きすることがあります。
どうしても、助けてあげたい、救ってあげたい、と思っても
自分には何もできないのだ、ということを
きちんと納得することがまず、大事なのだ、と

私はいつも思っています。

 

人を救うとは?

 

「救ってあげたい」と
様々な書籍を手に取り
いろんな人の話を聞きに行ったりしているけど

一向に、その人のことが救えない、と
悩み苦しんでいる人が結構いらっしゃいます。

人を救うとは、一体、どういうことなのでしょうか?

そもそも、私は人が人を救えないと思っているのは
「救いたい相手がどうなったら救われたことになるのか?」は
本人(相手)にしか、わからないから、です。

「救いたい」と訴える人は
どうなったら本人(救いたい相手)が
良い状況になるのか?ということよりも

おそらく、自分自身の罪悪感が消えるような
あるいは世間の目から見てまとまった状況になるような
そういう風になることが救うことになってやしないか?ということです。

つまり救いたい、と言う人は
本当に、相手のためにそれを言っているのか?
私にはわからないのです。

救いたい、って言うけれど
「自分が納得するような状況に持って行きたいだけではないですか?」

私は、そう問いたいです。

 

相手は本当に、どうなりたいのか?

救いたい、救いたい、と迫ってくる人に対して
心を開いて「私は本当はこう、変わりたいの」
「私は本当は、こうしたいの」と話すのかも、疑問です。

人を救うとは難しいことです。
相手がそうなりたい状況に近づけるようにするために
自分ができることをしたい、ならわかるのですが

相手がなりたくもない状況に
自分の罪悪感をぬぐいたいがために
「救ってあげたい(私の気持ちが収まるような形にね)」

これでは、相手にとっては
余計に苦しむだけになるのと
状況は、何も変わらないでしょう。

 

親子であっても救えない

 

「子どものことを救いたいって言う気持ちが無意味だ!って言うんですか!!!」と言う
憤慨して怒っている人の顔が浮かびますが

子どもはなぜ、そうなったのでしょうか?
勝手に、生まれてきた子どもはそうなったのですか?
子どもの性格が悪いから、そうなったのでしょうか?
子どもが人と違うのはいけないことでしょうか?

親子については、本当に様々なお悩みがあり
私はここで具体的に述べて
誰かを怒らせたり、傷つけたりするつもりは
ありません。

 

子どもを救いたい、と思っても
親は子どもを救ってどうにかしてあげることはできないのだ、と

親自身が納得
謙虚な気持ちになることなしに

今の状況が動くことは一ミリもない、と
私は思います。

親ができることは何もないのです。
時間をかけて見守ること以外に。

 

救いたい、と今の状況をどうにかするために
親が良かれと思って、
手を出し口を出せば出すほど

子どもはさらに、心を閉ざし
親子の距離はどんどん開くのではないでしょうか。

 

親が子どもにできることは
期待もせずに、待つことだけ

しか、できないということです。

期待せずに待つ。
なぜなら、親ができることなど
一つもないのだから。

そこに謙虚に向き合えたのなら
きっと子どもも少しずつ行ったり来たりしながら
育ち直るのでしょう。

 

人を救えない理由

 

結局、人は自分によってでしか救われない

ということです。

自分でこれではいけないな
どうにかしないと

と、決めて、動かない限り

人は現在地点からどこにも動くことは
できません。

 

誰か他の人が勝手に動かない誰かを
車椅子にでも載せて
「ここはどう?じゃあ、あそこはどう?」と
無理やり連れ回すことは
暴力でしかない、と思います。

本人が動こう、と思えるまで
心と体が温まる場所を提供すること

身近にいる人ができること、でしょう。

 

「こうでなければならない」を押し付ける人にとっては
ただ、見守る、ということは
とても苦痛なことだ、と思いますし

救いたい、という人は
自分が何かできるはずだ、という奢りもあり
自分がどうにかすれば、上手くいく、と自分を過信している人であり

相手にとってはそれは、自由を奪われる脅威でしかないのです。

 

「さてと、そろそろ動くか」と思えるようになるまでに
どれだけの時間を費やせばいいのか?すらわからないことです。

救いたいような状況になるまで
どれだけの時間がかかってそうなったか?にもよるでしょうし

何せ、本人の自尊心「自分はできるのだ」という自分への信頼が
欠けてしまっている人が
外の世界に出ることはとても恐ろしいことでしょうし

大きな病気をして、落ち込んでいる人が
勇気を出して乗り越えよう、と思えるようになるのには
時間がかかったり、
あるいは乗り越えられない、と思うのも
本人にしか、その気持ちはわからないものです。

「いつになったらそうするの!」と周りから詰問するのは
ただの拷問でしょう。

人が自分で決めて動けるようになるためには
「私はここにいてもいいのだ」と
心から思えるようにならなければ

その安堵がない限り
動こう、変わろう、行動しよう、なんて
とても思えません。

 

「あなたがただ、ここに生きててくれて嬉しいのよ」

人を救いたい、と思うのなら
こう、相手に向かって心を込めて言えるかどうか
自分に問うてみてください。

「あたながただ、ここに生きててくれて嬉しい」と思えないのなら
相手を救いたい、というのは
自分が気がすむ形にしたいだけだ、と私は思います。

 

結局、人が他人にできることは
温かく寄り添うこと、だけであり
「大丈夫だよ」と声をかけることだけ、であり

手を出し、口を出して他人をどうにか動かしてやろう、なんて
おこがましいだけだ、と思います。

 

私が、私が、というのは
「自分の勝手でそうしているのだ」と認めることは
とても辛いことですが

相手のため、を思うのなら
私が黙ること、であり
私が手を出さないこと、であり
相手が望むことがあればできることは、気持ちよく(無条件に)してあげること

それが本来の相手のため、ということだと
私は思っています。

 

手出し、口出しをしてどうにか救ってあげたい
と思うのは

「あなたは私がいないとダメなんだから!」と
ダメ出しをし
相手を信じてない証拠です。

「この人なら自分の人生は自分で歩くでしょう」
本当に信じられるのなら
どんなに時間がかかろうと
そこから動かなかろうと
温かい気持ちで黙って待てると思います。

 



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