捨てても捨てても残るものが自分をつくる

あけましておめでとうございます。
年明け最初のテーマは 
「自分らしさ」にしてみようと思います。 

「自分らしさ」を求めて
「人より秀でている部分」
「人と違った自分の良さ」などを
探し求めて、さまよい続けている人がいます。 

探し求めて、自分を磨くために
何かを付け足し、飾り、補充し、
そしてそれらを維持するために頑張っていくと
どんどん「自分らしさ」からは遠ざかります。

捨てて、捨てて、捨てまくる。
思い込みを捨てまくる。
習慣を捨てまくる。
煩わしい人間関係を捨てまくる。
捨てまくっても、後に残ったものや
また自分の中に戻ってきたものこそ
自分を構成する要素となるのです。

 

確固たる自分はあるのか

「確固たる自分」という言葉を見た時に
「確固たるそれ」になるためには
普遍的な何かが必要だ、と考え
他人より優位な点や、他人より得意なことを
自分の価値だ、と認識し、
「自分の売り」を握りしめて手放さないようにする。 

これだと結局
日々、劣化する一方だ、と思うのです。

「確固たる自分」を求めて
変化せずに、変化させずに
握りしめることでは
自分らしさからむしろ遠ざかって
「作られた理想的な自分」になっていくでしょう。

「作られた理想的な自分」を維持するのは
とても疲れるのと同時に
常に、何かのものさしで自分を他と比較する必要
出てきます。
なぜなら、「自分は理想の中でどれくらいの位置にいるのか」
気になるし、不安だからです。

ある理想の物差しの中で自分を図っているうちは
「自分らしさ」ではなく
「自分が勝手に想像した理想の自分らしさ」で
頑張ってしまっている、ということになりますね。

確固たる自分なんて、
探して、求めて、補充して、飾って
作り上げるものじゃない、と私は思います。

捨てても捨てても残るもの

断捨離が流行っていますが
断捨離でものを捨てるだけではなく
自分自身が握りしめているもの、
「こうしなければならない」
「こうじゃなきゃ、いけない」
そういった固定観念も捨てていかなければ
結局、心からスッキリすることはないでしょう。 

自分の思考が行動を決めているのですから
思考を変えなければ
行動は変わらない。
よって、いくら断捨離しても思考がそのままだと
結局、同じところをぐるぐるしてるだけになるのです。

思い込みを捨てまくる。
習慣を捨てまくる。
煩わしい人間関係を捨てまくる。

 

「こうしなければならない」
「こうあるべきだから頑張る」
このような思い込みも、無理をせず
一回、捨ててみたらいいのです。

「私を作っているこうあるべきを捨てるなんて
自分を捨てろってことですか!!」と怒る人ほど
思い込みを捨ててみるといいと思います。

「私を作っている固定観念」こそ
一番有害だ、とすら思います。
固定観念は捨てまくる。
「こうあるべき」を「そうじゃなくてもいい」にすると
選択肢は無限に増えていきます。

その時々で選べばいいだけで
何も、握りしめ、そして
「自分はその『こうあるべき』を維持してるから自分でいられる」
というのは盲信です。

一旦、思い込みをやめてみて
隙間を作ってみると
息が深くできるようになります。
手足ものびのび動かせます。
心も自由に動きます。
その自由になった状態で、もう一回考えて
「やっぱり私はこうありたい」と思うなら
また、そうやればいいだけです。

「これがなきゃ、自分じゃ無くなる!」
この恐れこそどんどん自分をがんじがらめにし
周りの人にも窮屈な思いをさせ、気を使わせ
年々、周りから人が遠ざかっていってしまう
寂しい結果になるのです。・

「これがなきゃ、自分じゃ無くなる!」
私の新刊にも書いている通り
「心の冷え症」の最たる原因にもなります。

 

「うちは毎年、こうしているから」という
作り上げてきた習慣。
これもまた、時と場合と、体調と気持ちと、
色々な要素で
「うちは今年は、やらなくてもいいや」と
やめてみたっていいのです。

年末年始に鬼の形相で
「いつもそうしているから」と
必死におせちやご馳走を作ることで
しみじみと年越しができなくては
本末転倒ですね。

確かに「我が家の正月」「我が家の〜」って
いいものですし、ホッとしますよね。
でも、「我が家の〜」を死守するために
ケンケンしてしまっては、本来の目的から
遠ざかってしまいますね。

「我が家の〜」なんて決まりごとは
毎年、見直してリニューアルして
それでも自然に残るものが「我が家の〜」なのではないですか?

 

私は2回、フェイスブックをやめています。
ゼロからやり直して、今回3回目です。
でも、毎回お友達になってくださる方が
いることに気がつきました。
やめてもやめても、お友達として残っている方こそ
リアルで会ったことがあろうが、なかろうが
ある意味、つながりのある方なんだな、と
しみじみ、感じたところです。

自然と共感しあえなければ
無理をして、お互いに気を使い、相手に合わせることに
なります。
そういう人間関係を維持することに
エネルギーを消耗していると
本当にやりたいこともわからなくなれば
本当にやりたい時に残っているエネルギーがありません。

リアルでも、SNSでも人間関係を風通しよくしておくには
「人から嫌われたらどうしよう」「みんなから好かれていたい」
なんて不可能なことを望まずに
その都度、関係を見直していけばいいのです。

何度見直してもそこにいる人たちこそ
自分が自然と振る舞い、理解しあえたり共感しあえる人たちなのでは
ありませんか?

 

捨てても捨てても残るもので私たちはできている

 

結局、握りしめて変化をしない「確固たる自分が欲しい」と思っても
そんなものはないのだ、と思います。

日々、同じことは一つもなければ
日々、変化しない物もなく
私たちが握りしめられる確固たるものなんて
一つもないですものね。

自分についても同じです。
ただ、どんなに辛く、大変な時にも
していること、できることが習慣であって
どんな時にも自分がしていること、できてること、一緒にいる人、によって
自分は支えられているのだ、と
この記事でも書きました。
「死にそうにもう、嫌だなと思ったときに見えてきたもの」  
 

他人目線で選んだたくさんの必要だと信じてきたものやことは
自分を語る上では
「私って、こういう人なんです」と言えて
気持ちがいいことがあるのかもしませんが、
他人目線を気にしたり、「私ってこういう人なんです」と
良い気持ちになったり、自己顕示欲を満たすため、に
確固たる自分を、作り上げようとすればするほど

年々、人の心も体も
固まっていきます。

年々、心も体も楽になり、年相応の経験を積んで
ここまで来られたんだな、という
「知恵のある壮年、お年寄りの方々」は
他人目線で選んだことやもの、不要な固定観念を
どんどん、捨ててきた結果、
心も体も年々、軽くなり、解き放たれていくから
「良い感じの壮年、お年寄り」になっているのだ、と
多くの患者さんをみて、感じることです。

自分らしさ、は他人に自慢するためのものでも
他人に「自分ってこういう人なんです」と説明するために
あるものでなく

自分らしさは、そこに残っているから
それが自分らしさなんだな、っていうだけなんだ、と
私は思います。

そこに自然に残っているものに文句を言いたくなるから
様々なものやことや、飾り付けを必死になってやる結果
年々、辛さが重なり
心も体もこわばっていくのです。

「ありのままの自分を認めたいのです」と言いながら
日々「ありもしない理想の自分」を目指して
どこかへ、良い飾り、見栄えの良いモノ、良い人に思われそうなことを探して
さまよい続けるのでは
どんどん、「ありのままの自分」からは遠ざかり
自分自身でもなにが自分なのか?すらわからなくなるだけです。

捨てて捨てて、捨てまくったところに残っているものこそ
自分自身を作っているものたちであり
自分の輪郭です。

どのような生き方が正解で、尊くて、価値がある、なんてものすら
ありません。
どんな生き方でも自分が選んでやっているのだ
それだけです。
今年一年、今日一日どう過ごそうか?
なにはともあれ、まずは今日一日をどうしようかな?というところから
始まるのだ、と思います。



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内科医の私がなぜ、情報発信をしようと思ったのか?
また、私自身が生きづらさからどのように
今、気楽に適当にニコニコと生きるようになったのか?

その過程を書いた記事をこちらで公開しています。

女医とも子物語

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