「わたし」主語で生きていますか?

「わたしは〇〇をしたいです。なぜならば〜」

「わたしは〇〇をしたくありません。なぜならば〜」

私は、このように「わたし」主語で生きるようになってから
本当に日々生きるのが楽になりました。

そして、楽だけでなく、充実してとても楽しく
飽きることなく様々なことに、好奇心が湧いてくるのです。

そんな私も、以前は「誰か」主語の生き方をしていて
とても辛かったのです。

 

「誰か」主語の暮らしとは

 

新しくやりたいことができたとします。
私は、勉強をしに行くことがとても好きでした。

ですが「私行きたいな」という気持ちよりも
そんなのは「子供」を置いて行くべきじゃない、と
何も言う前に、諦めて辞めてしまうのです。

誰も禁止していなくても、「親とはこうあるべき」を優先して
「私は、これをやってみたい」を我慢してきました。

あるいは、
「こんなことをしたら、親が心配するから、辞めておこう」
これもそうです。

「私は、やってみたい」よりも
「親が心配するから、心配かけるような子は親不孝になるから
辞めておこう」を優先しました。

「私はこれを食べに行きたいな」と思っていても
「相手は、もしかしたら、違うものを食べに行きたいのかもしれないから
相手に聞いて、それに従って置いた方が、いいな」と判断します。

「私はこれ、食べたい」が言えずに
「なんでもいいよ」で終わるのです。

学校の役員では
「私は去年も役員をしたので、今年は遠慮したいな」と思っている。
けれども、誰も候補者がおらずに先生がとても困っている。
「先生が気の毒なので、役員を引き受けてあげた方がいい」

「私は遠慮したかった」のに「役員を引き受けてあげた方がいい」を
優先するのです。

私は、数年前まで、ずうっとこのようにして
「私はこうしたい」よりも「誰かが、こうした方がいい、と言ってる気がする」
あるいは「実際に誰かが、そう望んでいること」を優先してきました。

 

「誰か」を主語にしていると便利なこと

 

なんでわざわざ、私は「誰か」を主語にして生活していたのか?というと
そうしていると、便利なこと、があったからです。

「誰それがかわいそうだから」
「〇〇のために、そうした方がいいから」と
他人や自分以外の人や物を優先していると
他の人から「良い人」と思ってもらえるのです。

他人を優先するもの同士で、お互いのその「自己犠牲的な姿勢」を
褒め称えあったりしていました。

そうしていたら、まだまだ我慢することもできるし
「わたしだけじゃないんだ、辛いのは」と少しの間また
頑張ることができたのです。

それで、お互いに 
「私たちは、恵まれてる方なんだから感謝すべきだよね」と励ましあって
自分自身の本当の欲求に重たい蓋をして、
わたしの本当の欲求なんて、なかったことにしてきました。

 

例えば「親孝行」をしている自分は
どこかで「親に心配をかけているのではないか?」という
自分自身の、出どころ不明な罪悪感
少しは、減るのです。

その罪悪感の出所は、どこからなのか?も考えることなしに
「何となく感じている、罪悪感」は
「私が悪いんだから、そうするべき」を強化してくれます。

なので、他人主語で生きていると、
「罪悪感」から少し、逃れられる気がするのです。

でも、「本当に私が悪いの?」と自分に聞いてみたことは
ありませんでした。

 

いつもいつも、「あの人がかわいそうだから」
「協調性を保つためには」と、自分以外のことだけ優先し
置いてきぼりにしていたのは「私自身」でした。

人の心身は、自分自身から
欲求を無視され続けたり、後回しにされ続けたりすると、
こじれてきます。

例えば、
・いつもイライラする
・急に涙が溢れてくる
・とにかく食べ物で埋めておかないと、不安になる
・寝ようとしても、寝ることができない
・顔の一部にチック(小さな痙攣)がくる

けれども、それを他人からは絶対に悟られたくないので
引きつった笑顔をして、
「私は、ぜんっぜん平気 平気!!」と空元気を
装うのです。

さらに「私は、もっとできるし、頑張ってるよ〜」という
スタンスを取るので
誰も私が悩んでいるなんて、気がつきません。

「やりたくて人のためにやってるのね、偉いわね」と
本当に思われているのです。

なので、いつ、どうやってそのスタイル、
「他人優先」をやめて
「わたし」を主語にしてもいいのか?
怖すぎて、きっかけすらつかめなくなっていたのです。

 

「わたし」主語で生きてみると

 

わたしは、そんな「誰か」主語で生きて、くたびれ果て
「もう、嫌だ」と思い、「こんなに自分をないがしろにしてていいのか?」と
自分に向き合いました。

「わたしは私で行こう」と決めて以来、
「わたし」主語で生きるようになりました。

最初は、怖かったです。
「わたし」主語で生きること=迷惑をかけることになるのでは?と。

迷惑をかけない人はいません。
でも、「わたし」主語で自己中心的に生きたからといって
それがイコール迷惑になるのか?というと
それは違ったのは、後になってからわかったことでした。

「わたし」主語で生きるようになると
依存的な人は、周りからいなくなります。

「わたし」主語の人には、依存することができなくなるからです。
なので私ははとにかく疲れなくなりました。

言い出すまでは、ドキドキして言えませんでした。
が、一度、
「わたしは、これがしたい、なぜならば〜」を言えるようになってしまうと
普通に自分の意思は、こうですよ、と提示することもできるようになりました。

 

「私の意思で選んでやってみること、ってこんなに満足感があるんだ!」

それはやってみるまで、わかりませんでした。
自己満足感の違いは、自分が決めてやったかどうか?で
満足度が変わるのですね。

満足感があるので、もっと上を目指そう!と思って
さらに、勉強をします。

そうすると、もっとできることが増えていきます。
できることが増えていくと、本当の意味で人の役に立つことも
自然とできるようになります。

「わたし」主語で生きていった結果、人を元気づけたり
勇気付けたり、することができるようになりました。

疲れないので、もう、どんどんやりたいことをやるだけで、
知識は増える、経験は増える、出会いは増える、相談も増える、
良いことずくめです。

数年前のわたしに、言いたいです。
「あなた、間違ってたよ」と。

「誰それがこう言ってるから」っていうのは
自分に逃げ道を残しておくため、だったのね、と。

自分で決めて、それをやる、というのは結果含めて
「責任はわたし」です。

「誰それがそう言ってるから」
「〇〇のために、仕方ないから」
こういうのは、結局、私自身が失敗して傷つかないように
医療畑しか知らない、井の中の蛙だった私が
新しい世界に出て行って、恥ずかしい思いをしたくなかったから。

だから、
「誰それがそう言ってるから」
「〇〇のために、仕方ないから」
そうやって、誤魔化してきたのだよね、と。

今更、過去には戻れませんから仕方ありませんが、
本当に勿体無い時間を、随分使ってしまったな、と思います。

もっと早く、それに気がついて、
もっと早く、「わたし」主語で生きていたらよかったな、と。

でも、今からでも遅くないし、生きてるうちにそれに気がついたのだから、
無駄にしてきた時間を、宝に変えて行こう、と前向きに考えています。

たとえ、こじらせてしまった心身でも
自分自身が素直にって、心から労わる気持ちを持ち始めたのなら、
心身は時間をかけてでも、変わっていきます。

誰も、面倒は見てくれません。
自分自身の心身を、お世話してあげられるのは
素直な自分だけです。



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