治らない病気との付き合い方

がんの他にも、難病と呼ばれる病があります。 
身内にそのような家族がいる時に
そして、その病気の方が落ち込んで絶望している時に
 

一体、本人は、そして周りにいる人は
どう、病と付き合っていけば良いのでしょうか?

という、問いをいただきました。 
 

私なりの考えを書きました。
答えでも、正論でもありません。 

 

絶望していて何もできない時に 

 

それまで通常通りに生きてきて
不意に、病やトラブルというのは
起こるものですね。 

そして、医師から
「これは治らない病気である」ことを伝えられた時
誰でも、絶望するのは
自分は明らかにその病で死に至る可能性が高い、と
確信してしまうから、でしょう。

そんな時、一体、どうしたら
日々をその人として過ごすことが
できるようでしょうか?

 

「自分の人生はもう終わった」と
言いたくなる気持ちもわかります。

けれども、命というのはいつ終わるのか?
自分で決めることができません。
終わるまで生きなければならないのもまた、
人生です。

治らない病気になったとしても
死がやってくるまでは、生きなければなりません。

「治らない」と言われてその日から
自分がどのように、日々の暮らしで
できることができなくなっていくのか?

それを考えることは、とても恐ろしいことです。

そして、実際に、先月はできていたことが
今月はできなくなっていくこともあるのです。

できなくなっていくことが増えていく時
あまりの恐ろしさに、
身動き一つ、深呼吸一つ、できないほどの
恐怖と絶望に襲われ
「何もしたくない」という気持ちになるのも
自然なことだと思います。

が、その時にでも生きないとならないのが人生で
頭で考えることができるのが人な分、
ありとあらゆることを、想像してしまうものです。

そんな風に身も心も縮こまってしまった時に
自分は、周りの人は
一体、どうしたらいいのでしょうか?

できていた自分に戻ろうとしない 

 

治る病気でも、治らない病気でも
あるいはトラブルであっても
それが起こる前と同じに戻ることはありません。

それは明らかなことです。

けれども、多くの人は
「病気になる前に」
「元気な頃に」
「トラブルになる前」

戻りたい、と願ってしまうのです。

起こったことで元に戻ることは、この世に一つもありません。

「今のできなくなった自分」が
「過去のできていた頃の自分」に戻ろうとすればするほど
苦しくなります。

「老い」を受け入れることが
病気をして、死にかけたことよりも
受け入れ難いことだった。

これについて書いた記事がこちらです。
参考になると思いますのでお読みください。

「自分自身を育て直す」

老いは治らない病ではありませんが
老いもまた、受け入れがたい人にとっては
日々、できないことが増え、その先に死が待っているという点では
治らない病気と同じです。

よくよく、考えてみれば私たちは
生まれてから成長期を経て
そのあとは、老いていくのが自然で
その先に死があるのは、100%の人間にとって
同じなのですよね。

ただ「治らない病気」となった時に
自分が死ぬ理由がはっきりしたことにより
より、具体的になって恐ろしくなる、ということだと思います。

話を戻します。

できていた自分が、できなくなった。
元の自分に戻りたい、戻りたい、と思えば思うほど
今のできなくなっている自分を受け入れることは
できません。

そして、周囲の人ももちろん不安もあり
「頑張って、また、できるようになろうね」
「元どおりになれるから、頑張ろう」と
声をかけて励ましてくなる気持ちもわかります。
誰だって、身近な大事な人には
元気で、前みたいにいてもらいたい、と願うのは
自然なことです。

ただ、日々できないことが増えていく中で
「元に戻りたい」と自分でも今の自分を卑下し
「頑張れ!」と周りでも
「できなくなってるその人のありのままを受け入れない」ことは

病気の人にとっては何よりきついことです。

希望を持つな、ではないのです。 

今の自分では、いやだ、いやだ、
以前に戻りたい、ともがいて苦しむことをやめて
沼の中で、足をぐるぐるさせて怖がるのをやめて
沼の底に、足をまず付けてしまうことです。

水の中で足が浮いた状態で
底なし沼だ!という恐怖で足をバタバタさせ続け
上に上がりたい、上がりたい、と
もがいていたら、足がつかないまま上がれることはなく
そのまま消耗して、溺れてしまいます。

底なし沼なんてありません。
どんな状況でも、底があるのです。

絶望しているのなら
飽きるまで、もういいや、と思うまで
絶望しきることです。

絶望しきったところで
足が底につくことに気がつくはずです。

「できなくなった自分で足を地につけること」

それは、できていた自分から見たら
かなり「下のレベル」で自分が足をつき
それを見たくない、見たらがっかりする、から
「元に戻りたい」と現実を見たくないわけで
ただ、見たくない、受け入れたくない、と
バタバタしているだけで疲れ果ててしまう。

結果、何もやりたくない、がさらに進んでしまっては
それこそ残っている日々がまだまだあるのに
それは自身にとっても、周りの人にとっても
本望ではないはずです。

まずは底なし沼で、このまま溺れてしまうんだ、という
恐れにおののくのではなく

底なし沼じゃない、
足がつくところまで、行ってしまえ!と
浮いている足を、沼の底で踏ん張れるところまで
足を伸ばして、地に足をつきましょう。

 

私のこと

 

底なし沼で溺れたくない!
怖い!もうだめだ!
逃げたいけど、出られない!
どうしたらいいの!

これは、治らない病気でなくても
日常、生きていて、思いもよらぬ出来事でも
体験する気持ちではありませんか?

私のことで申し訳ないですが
私は離婚を決めるまでの間、
本当に、もがきました。

もがいて、もがいて、
絶対に、片親というのはあり得ず
幸せな家族、幸せな夫婦像、
幸せいっぱいの人生
お気に入りの家、庭、etc.

それを自ら失うなんてことは、
考えることすら恐ろしいことであり
絶対に、だめだ、だめだ、と
底に足がつかないように
もがいて、もがいて、怒って、泣いて
それでも失わないために
理想を維持するために
必死でした。

けれども、現実には離婚を決意して
それでもまだ恐ろしく
一体、この先どうなるのか?
日々が、恐れしかないような状態でした。

恐れないようにしても
背後に、今後どうなるのか?(特に子供)という不安が
常につきまとっていました。

けれども、私は大丈夫なフリ、
全然、平常なフリ、をすることに
エネルギーを使い果たしてもいました。
必死に、水中で足をバタバタさせて
地上に顔を出し、平気なふりをしていました。

何も知らない人からは
「ダメだよ、離婚なんてしたら」
「母親として耐えるべきだ」
「自分勝手だ」
と、いう言葉も聞こえてきて

八方塞がり
誰も味方もいない

目の前のことをやるだけで
どうにか日々を乗り切るだけでした。

けれども、子供と家を出た時です。

「ああ、ついにここまできたな」と
底に足がつきました。

離婚はまだ、できてなかったけれども
大のお気に入りの我が家を、庭を出た時に
「ああ、もうここまできたら戻れないな」と
足が底についたのです。

地に足がついて、私は初めて
踏ん張れるようになりました。

もう、底なし沼で、怖い、怖い、
私、どうなるの?ではなく
底に足がついて、自分で立って踏ん張ることが
できるようになった時

「いま、できること、あるじゃん」と

思えるようになったのです。

それは、自分が思い描いていた明るい地上の
「できていた理想像」とはかけ離れていました。
けれども、そこが沼の底であっても
「そんな状態でもいま、できることがある」ことの方が
新鮮な喜びでした。

「ああ、まだやれるわ」と
私はその時、思いました。

治らない病気だけでなく「もう無理かも」「どうなっちゃうんだろう」と
浮き足立って、先が見えず、恐ろしい時にも

「足がつかない沼はない」

それを覚えておくことで
自分自身を見失わずに済むのだ、と
私は自分の経験から、思うようになりました。

 

病気の時に、地に足をつけたら

 

誰だって、衰えを目の当たりにしたくないです。
が、私たちは、自然の一部であり
自然の一部で生きているものは、衰えて
地に戻っていくことが、自然の経過です。

よって、できていた自分ができない自分として
地に足をつけた時
最初は、もっと絶望するかもしれません。

やっぱ、本当にできなくなっちゃったんだ、と
悲しくなるかもしれません。

けど、足がつけば、心も落ち着きます。
そして、足が付けば、そこでできることをやってみることが
できるようになります。

その時に、大事なのは
過去の自分と比べない、できている人と比べない
そして、もっと大事なことは
未来のもっとできない自分を先取りして想像し不安にならないことです。

「いま」に足をつけ
「いま」できることを一生懸命自分なりにやり
それに満足をすること。

日々、その繰り返しだけです。

調子が良ければできる。
調子が良くなければその日は無理しない。
明日できなくなったら怖いから、今日も頑張る、なんて
しなくていいです。

とにかく、いまの自分で地に足をつけ
いま、できることをやって楽しむ。
それを周りの人も、見守ることです。

「あんなに衰えちゃって」と悲しくなるのは
本当に、自分の心の中だけで、済ませることです。
それは、病気の人を見守る人の試練だ、とも思います。
ただ、パートナーなど本当に身近な人の場合
一度もお互いに泣かずに済ませようと頑張らなくても良いのでは
ないでしょうか?
一緒に泣いたっていい、と私は思いますし
共に素直に泣ける間柄は、あるところで羨ましいことだ、と思います。

それだって、どんな状態であっても生きてるのですから。
生きて、本人が、満足すること。
これだけです。

満足するためには
過去の自分と比べない、できている人と比べない
そして、もっと大事なことは
未来のもっとできない自分を先取りして想像し不安にならないことです。

 

安心して落ち込める環境を

 

闘病していると、本人は辛いし
落ち込むし、痛いこともあれば、苦しいことだってあります。

そんな時
「安心して落ち込める、痛がれる、苦しめる」環境があることが
本人にとっては安堵になります。

「もっと頑張れ!」
「そんな風に落ち込まないでよ」
「痛いの?でも薬飲んだら、多いんじゃない?」

そういう言葉掛けにより
病気の人は、安心して自分の訴えができません。
風邪ひとつでも、どうですか?
「仕事を休んだら迷惑かける」って無理しませんか?

大きな病でもそれは同じです。
病気の人は、周りの人にとても気を使います。
なので、
「素直に、落ち込んでいいよ」
「素直に、痛がっていいよ」
「素直に、苦しい時は言ってね」
周りの人のそういう気配や、言葉が伝われば
どんなに本人にとっては、安堵ができるでしょうか?

 

誰だって、落ち込みたくないし、頑張りたいし
もっとやりたいし、生きたいし、
治りたいし、それが本心です。

でも、そうならないことだってあるのです。

そういう時に、「落ち込んだっていいよ」って言ってもらえたら
また、安心して、地に足が付けることができる。
足がつけば、そこでできることは、その人らしくできます。

無理して大丈夫なフリをすることに
エネルギーを、時間を使ってしまうのでは
限られた時間(これはいま、元気な人も同じ)の中では
とてももったいないことだ、とは思いませんか?

 

そして病気の方の身近にいらっしゃる方々へ。
「病気で苦しんでいる人がいるのに
自分だけ楽しんだらいけない」
これは違うと思います。

病気で苦しんでいる人がいる間中、
自分のことはさておき、ずっとつきっきりで
そばにいますか?
そうしたくて、そうできるなら、そうすればいい、と思います。

ただ、実際には気分転換もしたいけど
自分だけ、悪くて、罪悪感で、外出すらできない、という方の声も
よく、聞くのです。

気持ちはそうですよね。
でも、病気の人が近くにいても、自分の人生はまた日々、自分のものです。
看病だけに打ち込むことによって、打ち込んだ人が倒れてしまっては
それもまた、困ると思います。

介護でも言えることですが
一人で抱え込まなければならない、と思うのは
違うと思います。
自分一人で背負えると思うのも、少し違うと思います。

手助けをしてもらう、素直に助けを呼ぶことです。
一人で抱えない。
気分転換も大事。
自分の一日もまた、病気の方と同じ大事な一日です。

 

治らないと言われた時に。
もう自分は、どうなってしまうんだろう?と路頭に迷った時に。

底なし沼はありません。
底なしに見えても、必ず、底はあります。
飽きるまで、投げやりな気持ちでも、絶望でも、
そこにどっぷりとまずは浸かることだと思います。
そして、飽きてきた頃に、
「あれ、底がある」と気がつくでしょう。

底に足さえつけば、自分で立つことができます。
実際に、立てなくても、ベッドに寝ていてもできることはあります。
生きてて、何もできない、ということはありません。
生きている、ということはそういうことだ、と
私は思います。



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「自分の内側から良くなる力が湧いてくる」ようなものになっています。
心と身体は別々ではありません。
自分の心を見ることなしに
他人や世間の目ばかり気にして見ていたのでは、
抑圧された心のひずみは身体に表れたり、
「まったく自分の思い通りにはならない日々」が続きます。
まずは自分を振り返る。
これまで見て見ぬ振りをしてきた自分を慈しむためのメルマガです。

3 件のコメント

  • 数ヶ月前から、ブログを拝見させていただいています。
    先日、母が脳出血で倒れました。
    前日まで元気で夕飯にハンバーグステーキを食べ、新年会に着て行く服を買い楽しみにしていた矢先の出来事です。
    意識不明で自宅介護も難しいため、施設の入所を検討しています。
    もう、元には戻れないんだと絶望のどん底。
    一気に落ちました!
    もがく事もなく落ちて尻もちついた瞬間、これから先私が私らしく生きて行くための選択、人の手助けも借りてもいいんだと思い、主人が入所している所にケースワーカーさんとの面談前に相談したところ。
    「ひとりで悩まないで抱え込まないで、力になるから、経済的な事もあるでしょうから社長に相談してみます。
    誰よりもあなたの事がら一番心配」と言われ、張り詰めていた気持ちが緩み涙が溢れました。
    底に足が着くと、周りから自然と浮き上がる力が与えられるんだなぁと思ったりしました。
    まずは、自分がどうしたいのか⁇
    そうする事で次の行動に移せ、ふっと肩の荷が降りるのかなぁ。
    かならず訪れる死に向かい、今をどう生きるか、これからもテーマの一つです。
    支離滅裂な文ですみません。
    初めて投稿させていただきました。

    • 菅井さん
      初めまして。
      お母様、大変でした。
      「まずは、自分がどうしたいのか⁇
      そうする事で次の行動に移せ、ふっと肩の荷が降りる」
      このことを今、経験なさったことで、この後の生き方も変わるのだ、と
      思います。
      どうぞ、みなさまお大事になさってください。

  • この二年半ほど、病気に振り回されています。病気になったのは自分のせいですけど、 ・・・少し足掻いていますが。

    歳をとる=老化することではないと、思っていても鏡を見たり、この頃は免許更新などで、思い知らされてますが・・・

    少しでも老化を遅らせないか、 カッコいい年寄りに成りたい。
    そう思い、意識は高く持ちながら歳に付き合っていこうかなぁと考えるこの頃です。

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