自分に良い意味で諦めをつける

誰だって、自分にどこかで
「もっと自分はすごいんだ」
「もっと人から認められるべき存在なんだ」などの
期待があるから
「今より、よくなりたい」と願って
日々、頑張ったり、勉強したり、するのだ、と思います。

一方で、その期待が大きくなりすぎるあまりに
現実と期待の自分との間の溝が
深くなりすぎて
苦しくなることがあるのも、本当のことではありませんか?

今日は、自分について
投げやりに、ではなく
良い意味で諦めをつけることが
悩み多き時には、大事だよ、ということを書いていきます。

 

自分の何にがっかりするのか?

 

自分に代わりはいませんし
「あーあ」というがっかりする部分があるのもまた
自分自身の姿です。

私は、落ち込む度に
自分に良い意味で諦めてきました。
投げやりに、「ったく私はダメなんだから!」と
ダメ出しをするのではなく

ただ、淡々と
「私には、がっかりする部分があるな」と
思うのです。

でも、それ自体が自分の一部なのですから
自分では「しょうがないね」と思ってないと
八方ふさがりになってしまい
悩みから抜け出すことができません。

しょうがないことは、たくさんあります。
全てが、ポジティブに、手放して
前向きにぐんぐん進むための力にすることができたら
その人はとても強くて、丈夫で、いつも輝いているでしょう。

けれども、人間なのですから
浮き沈みがあるのも本当です。

沈んだ時に、良い意味で自分のそういう部分に
諦めをつけることによって
「ま、しょうがない。」と
どうすることもなく、時間が過ぎるのを待つ、ことが
できるようになります。

ここで、逆に
「ありのままの残念な、姿」とレッテルを自分で貼ったものを
誤魔化すために、隠したり、プライドを守りたい、と認めないと
余計に、辛さが増すでしょう。

「ありのままの残念な、姿」は自分自身がそう、思い込んでいるのですが
でも、そもそも「ありのままの姿を残念だ」と最初に言ったのは
誰でしょう?

自分ではない、はずです。
生きてきた間に、たくさんの価値観の海に私たちは
投げ出されてきました。

ある価値観の中で、自分のありのままの姿が
「ダメだ」という価値をつけられたまでであり
本当にそれがダメなのかどうか?ダメでもダメじゃなくても
それが自分なのだから、
しょうがない、ということです。

特に、子供の頃から「これは良くない」と植えつけられたものは
大人になっても染み付いています。
自分が悩む原因の多くは子供の頃からのそのように植えつけられた
「こうあるべき」から外れそうになった時
「早く、元のこうあるべきに戻らなきゃ」と
辛くても、戻ろうとするから、ではないでしょうか。

よくよく考えてみると

 

私は、これまでに、たくさん、諦めてきました。
たくさん、諦めてきたからこそ
子供を含めた他人にも、多くのことを期待しません。

生きていて、素晴らしいことがいつの起こるとか
毎日がキラキラして尊いとか
みんなで一緒、繋がっている、ワンネスとか
そういったことをむしろ、冷めた目で見ている自分もいます。

それは寂しいことなのかな?と
たまに思うこともありますが
でも、人はその人であることだけで別にいいではないか、と
自分に対しても思い対し
人に対しても思いたいです。
そして、日々、良いことだらけ、悪いことだらけ、なんてこともなく
いろんなことがあって、いろんなことを思うから
生きてるとわかるのであって
人生ごった煮で良い、と思います。

みんな、とか、仲間、とかいう囲いにも
警戒するのは、全てが同じ価値観で集まれるみんな、なんて
いるはずがない、と思っているからです。

みんな、とか、仲間を意識すればするほど
そこから期待される暗黙の姿も感じ取らなければならなくなり
とても息苦しいです。

ダメだ、と思って悩んでいることは
自分が本当にダメじゃなくて
「他人が期待している自分から遠ざかっていてダメだ」
ということの方が多いと思います。

自分が決めた目標から遠ざかってダメだ、というなら
悩むこともなく
目標を確認したり、方法を確認したり、
見直すことに心は重たくなることはないでしょう。

自分のありのままの姿に対して
「これはダメなんじゃないか」と悩むから
心が重たくなるのです。

だからこそ、私は
ありのままの姿について、悩んだ時は
「ま、これが自分なのだから、しょうがないよね」と
良い意味で諦めることにしています。

諦めれば諦めるほど清々しい気持ちになりますし
隠しておくことも減るので、楽です。

 

苦しさは自分にしかわからない

 

これは患者さんとの対話の時も自分が気をつけていることなのですが
「他人の苦しみに安易に同調しないこと」です。
傾聴はするけれど
「あなたの苦しみがわかります」とは
私は言いません。

その人がどのように、どれくらい苦しんでいるのか?が
わかるはずがないからです。

あなたが悩んでいる事実はわかります、
このような同調はしますが

「自分にも似たような経験があるので辛さがわかる」と言われると
人は「あんたにそんな簡単にわかってほしくない」と
心の中では反発するものなのではないでしょうか?

なので、私は安易に人の苦しみに同調はしません。
そして、その苦しみを解決するのも、その人自身であり
それを解決できるのが私だ、医者だ、
カウンセラーだ、スピリチュアリストだ、占い師だ、とも思いません。

突き放すこともしませんが
でも、手を握って、わかります、と涙を流すのは

インチキだ、と思います。

悩みを聞いてヒントを出して
それをどう扱うのか?は本人次第です。

よって、私は自分自身が悩んだ時にも
人に聞いてもらって、どうにかなるなんてない、と
思っています。
孤独です。孤独がなければ、解決はない、とすら思っています。

聞いてもらって気が楽になることはあっても
苦しみ自体を解決するのは自分にしか、できません。

下手にそこに手出しをされることも拒みます。

 

良い意味で諦めて、ま、しょうがないか、と思えるのか、
水に流して、気を取る直すのか、
さもなくば、好きなだけその悩みに頭を突っ込んで、
気がすむまで悩むのか?

本気で悩むと、人は一年、二年も経てば
飽きてきます。
飽きてきたら、そろそろ悩むのはやめて
さてと、好きなことでもするか、となるものです。
それまで、時間を費やすことは別に悪いことではない、と思います。

本気で悩まず、人に話を聞いてもらうために悩んだり
自分で解決をするつもりがなければ
悩むこと自体が生きる目的になったりもするでしょう。

どんな自分も代わりはない

 

新しい自分を探したり
今よりもっと素晴らしいステージ!?にいる自分を想像したり
好きにそれはしたらいい、と思います。

が、根本的な部分で
自分自身が他のものになれるはずがないのです。

育ったように育ってきて
それが変わらない、とは言いませんが
育てられてきた、ということの影響はとても大きいです。

よほど意識をしていないと
育てられたように生きているのが人だ、と思います。
それをチェンジする、ということは

とても苦労もするし
行ったり来たり、だし
うまく行かずに壁にぶち当たることもあるでしょう。

が、自分を変えるというのは
素直な姿に戻ること、であり
ありのままの自分に、
期待に沿わない姿や、自分の理想と離れている姿を見た時に
良い意味で「ま、しょうがないか」と諦めがつく人は

素直な自分に戻っていくことができるように
思います。

生きれば生きるほど重たくなる人

生きれば生きるほど軽くなる人。

いずれの道も、アップダウンがあるし
どう生きても、いろんなことがあるものです。

 



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内科医の私がなぜ、情報発信をしようと思ったのか?
また、私自身が生きづらさからどのように
今、気楽に適当にニコニコと生きるようになったのか?

その過程を書いた記事をこちらで公開しています。

女医とも子物語

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