幸せになるのが怖い人。

絶対に幸せにならない生き方がある、と思います。

それは、いつも困った居場所に自分の役目を見つける
生き方のことです。 

「どんどん楽になる生き方」
と対比してお読みいただくと
その差がはっきりして、
今から自分がどう、行動したら良いのか?
鮮明になると思います。

 

なぜ、楽になることを恐れるのか?

 

周囲を見渡してみると、いませんか?
せっかく、生活が快方に向かってきたのに
また、振り出しに戻るような場所を選んだり
また、違う困難を見つけて、そちらについて悩み始めたり
している人を。

せっかく、少し明るくなってきたな、と思ったら
またすぐ、暗く悩む方を選んでいる人を。

どうして、いつも
幸せになったり、楽になってはいけない、と
まるで思い込んでいるように
苦しい方、辛い方、不安な方、困っている方を
選んでしまうのでしょうか?

 

「自分は困っている人、困っている状況の中で
頑張ってこそ、自分なのだ」
という思い込みがあるためだ、と私は考えます。

昔から、気がついたら、
困っている人や、困っている状況の中にいる自分が常
そこで耐えて、頑張って、少しだけでも役に立てていたのなら。

役に立てているのかな?
私ってどうなんだろう?と
疑問が晴れるまで、
困っている人や、困っている状況の中にいる自分でいるのです。

そして、せっかく、気持ちよく暮らし始めたと思うと
不安になり、また困った場所に身を置きたくなってしまう

何も心配がないことが不安という中毒

常に困ってないと不安という中毒

という状態だと思います。

自分は、楽で、幸せで、のほほんとしていたら
いけないのだ

常に困っている人の役に立ってこそ、の自分である

実は、これをやり続けている人こそが
周囲の人にとって、とても困った人で
面倒な人だ、と思われていることに
気がついてないことが
一番困ったことなのです。

 

困った人から離れらない人

 

困った人のそばにいて、その人の役に立ちたい。
これは、本当に、その困っている人のためですか?

困った人のそばにいて、その人の役に立ちたいのは
自分のためなのではないですか?

私は、それを聞きたいです。

本当に、困っている人のためだ、と思うなら
困ったことから抜け出せるように
必死になり、困ったことを、完了するまでやりきったら
その場から立ち去るはずです。

なのに、その場にいて、さらに困ったことを探し
誰かに、何かをしてあげようとするのは
どうしてでしょうか?

常に、困っている人、困っている状況を探して
自分の身をそこで活かそうとするのは
一体、誰のためですか?

 

困っているだろう、と思い込む勘違い

 

困っている、と言われて、頼まれて
助けてもらいたい、という申し出を受けて
困っている人の役に立つために
自分ができることをするのは、とても良いことだ、と
思います。

一方で、頼まれていないのに
自分で「あの人たちは困っているだろう」
「あそこは今、困っているだろう」と
勝手に自己判断して、その人のそばに行ったり
その状況に自分の身を置いて
あれこれと、手出し、口出し、をすることは
実は、その人たちや、その状況にとっては
不要な手助けになっていることもあったり
返って鬱陶しい邪魔にすらなっていたりすることが

よく、あります。

本当に相手のため、状況のためになっているのか?は
客観的に見ることが必要だ、と思います。

 

困っているか、困ってないのか?
その認識には差がある、ということの
例えをあげてみます。

ケアマネジャーという仕事があります。
介護が必要な人のために
在宅療養の環境整備や、本人のリハビリなどの
手配をする仕事です。

介護を受ける人のために
その人の周りを整備する仕事です。

ケアマネジャーの人が陥りやすいのが
この「困っている人を完璧に困ってない状況にしてあげよう」と
過剰に手出し、口出しをしすぎ

返って、介護を受ける方やそのご家族に
大きな負担を負わせてしまっているケースがよくある、
ということです。

ケアマネジャーは、困っている人を
私の知識や経験を活かして
私が考えるハッピーな生活に変えてあげよう、と
思って、やっているのです。

が、「どのようなことで困っているのか?」

実は、本人たちによくよく聞いてみないと
ケアマネジャーから見たら困ったことも
介護を受ける人や家族にとっては困ってないことも
あるのです。

そこの差があることを認識せずに
「私はわかっている」
「私は知っている」
「私の方が正しい」
「私はプロだ」というおごりがあると
助けを受ける方からすると、押し付けられて
維持するべきことが多くなり
負担になって返って困ったことになるケースも
多々あるのです。

このように、私から見て困っているように見えても
本人たち、当事者にとっては
さほど困ってもなく
「これが私たちのアベレージで安定しているのです」
ということがあることを覚えておくことは
大切なことだ、と思います。

 

幸せになるのが怖い人

 

自分が幸せになるためには条件がある、と
信じていると
「勝手に楽になってはいけない」
「もっと修行をせねば、幸せになれない」

そう、思い込んでしまいます。

せっかく自分なりの幸せが足元にあるのに
「このまま、このささやかな幸せが続くはずがない」という
恐れが常に、奥の方で疼いているのです。

そうすると、せっかく足元にあるささやかな幸せを投げ打って
どこかの誰かが困っているとか
どこかの何かが困った状況である、ということを探して、
そこに自分の身を置いてしまうのです。

困った人を助けるのに
自分のささやかな幸せを捨てる必要なんてないのです。

ささやかな幸せを守りつつ
人の助けをすることもできるのに。

なのに、自分がささやかな幸せを失うかもしれないなら
今、ここでそれを捨ててしまって
誰か困っている人のところに行って

「自分は困っている人、困っている状況の中で
頑張ってこそ、自分なのだ」とばかりに

それと引き換えに、安定した幸せが手に入るのだ、と
思いたいがために

何かを心配したり
困っている人と一緒に困ったりしているのです。

それは結局、自分のためにやっていることです。
自分が安定した幸せを手に入れたいがために
やっているのです。

が、一方で安定した幸せがこの世にはないことも
どこかでそれを知っている。
だから、
ささやかな幸せを味わうことからも逃げています。

こんな幸せ、すぐに消えてしまいそう。
それならゼロでいいや、味わわなくていいや、
いつも困っている方がいいや。

安定した幸せなんて、この世にありません。
けど、瞬間、場面で
自分なりのささやかな幸せは、足元にあるのです。
それを維持して安心したい、と思った瞬間、
それは消えていきます。

常に幸せ。
常に安心。
そんなもんはないからこそ
足元に今、ある幸せを愛でることが
大切なのではないでしょうか?

自分なりの幸せを感じることに
一つも条件なんていりません。

だからこそ、わざわざ大変な方、困った方に
自分の身を置いて

そこで頑張って、疲弊して疲れ果てて
怒って、相手を責めたり

手出し口出しをして
それを受け取る相手を実は困らせたり、

そういうことに日々の時間を使うことは
もう、そろそろやめる時期なのかもしれません。



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内科医の私がなぜ、情報発信をしようと思ったのか?
また、私自身が生きづらさからどのように
今、気楽に適当にニコニコと生きるようになったのか?

その過程を書いた記事をこちらで公開しています。

女医とも子物語

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