女医的 魂の論 ありのままの自分を受け入れるためには

「ありのままの自分を受入れる」

これを文字通りしようとすると、
一体、どうしたらいいのか?
迷ってしまうでしょう。  

ありのままの自分を受け入れるとは

 

ありのままの自分を受け入れるのは誰?

このようなお便りをいただきました。

私は誰からも必要とされなくなることにとても恐れがあります。
だから無理をしてでも(その時は無理とおもってない)
必要とされたくて関わることがあります。
様々な面で。そして後で大変になります。

でも、それが私の存在の価値でもありました。
いまは、それに気づき、自分と向き合いながらすごしています。
上手くいかないこともあるけど。

自分で自分をみとめる、受け入れるのにも、
何かを得ないと、とか思ってしまいます。葛藤中です

小室さんは、どうやってのりこえてきましたか?

 

このように、「自分で自分を受け入れる」ということは
悩めることなのです。 

さて、ここで質問です。 

いったい「ありのままの自分」を誰が裁いているのでしょうか?
そして「こうなったら認めてやるよ」と誰が認めているのですか? 

「ありのままの自分」「を認めるのはだれ?」
「自分に決まってるでしょ!」 

 

自分っていうのは誰ですか?

たとえば、「自分を定義してください」と聞きます。
さて、自分を説明してみてください。

•東京とに住んでいる女性
•職業は○○です
•子どもが○人います
•親は、どこどこ大学出身です
•親友には誰と誰がいますetc.

 これをみて、あることに気がつきませんか?

自分を定めるもの、は実はとても曖昧であり
しかも、外部情報によって成り立っていませんか

「これぞ、自分」という、自分をもって説明できるものがありません。 
外部情報を寄せ集めたのが、自分ではないでしょうか?

私たちは生まれてから、いろんな価値観に触れて
ある意味、偏った価値観を「埋め込まれている」のです。
それは、良い面も、悪い面もあるでしょう。

そして「外部情報によって育まれた自分」
その価値観に従って、いろんなことを日々やっています。

こうしなければならない。
ああした方が成功する。
失敗したら恥ずかしい。

そういう枠の中で過ごしています。
枠の中で縮こまって、感じなくなった状態が
「心が冷えきった状態」です。
詳しくは、こちらをお読みください。

 

自分をありのままに認める。
「外部情報によって育まれた自分」
その価値観に従って、いろんなことを日々やっていることを
ありのままに認めることができない。

 

私たちは何をしにこの世にやってきたのか?

 

私は、魂ということばを使うのが好きです。

私たちは、身体という乗り物に乗って、魂がこの世で
あらかじめ「したい経験」をしたり、「学ぶ」ために生まれてきてる。

私は、そう考えています。

 

そのように考えたほうが、
このブログ記事(それが起こるのには意味がある。 – 女医とも子の診察室)にも
書いたとおり、

起こることはすべて予定通りである、と考えたほうが
起こっていることについて素直に取り組み、前に進んで行くことが
できるから、です。

 

そして、魂がしたい経験をしたいのに、それを避けていたり、
あるいは、まったく魂の声など無視をして
ずれずれのことを、ずっとやり続けている
それは「何度やってもうまくいかないこと」
「慢性的な症状」「繰り返す症状」や「病気」などのフックとなって

「オイオイ、いい加減それやめて、前に進んでくれないかい?」

魂から、お問い合わせがくるでしょう。

そう考えるようになったのは
私は臨床でたくさんの患者さんの症状や病気の原因の根っこを見て
「本当にしたいことを我慢している」
「無理をしてやりたくないことをずっとやっている」
「常に自己卑下をして自分をバカにし続けている」
「他人との比較で常に磨耗している」etc.

そのような根っこを自分で正したとき、そして自分で直さずにいったときの、
病気の行く末を診てきたので

そう考えるようになりました。

 

魂の声に従う

勘違いしないでいただきたいのですが
私は、新たにスピリチュアルワールドにいって
「ふわふわして、お花畑の中に気楽にいたほうがいいですよ」
「何も心配しないでください、ありのままでいいですよ〜
あなたは、何もしなくてもいいですよ〜」
ではありません。

まったく、逆といってもいいでしょう。

私たちは、わりと難しい問題を自分に課して生まれてきているのに、
呑気に構えており
悩んでいる場合ではないのにずっと悩み続けて
日々を無駄にしすぎているケースがあります。

悩むというのは、行き先不明、停滞です。
そうではなく、魂の声を聞く、というのは
「わたしはいったい、この世で何を体験したくて
生まれてきたのだろうか?」

という目的意識を持ってみることだ、と思います。

それは、たった一つの「自分の使命」を発見するために右往左往すること
でもありません。

それは「自分がしたい体験だけを選んでする」ことでもありません。

それは、「私の親は私をこのように育てて、そんな風に育てられたから」などと
いつまでも悔やんだり、妬んだり、自分を癒したりすることでもありません。

タイマーがしかけてありますね。
命は有限です。
制限時間内に、どれだけしたい経験ができるのか?
それだけです。

単に、目の前に起こっている出来事は
いったい、何だろう?
私はいったい、ここから何を学ぶべきか?
自分自身に問いかけていくのです。

自分がしたい体験だ、と自覚してない体験もするでしょう。
そういう時こそ「魂の声に従ったのに!」と怒るのではなく

「ここから一体、何を学ぶことができるのかな?」と
少し、自分と周りの人や環境を客観的に眺めてみることです。

そして、そこから特にもう、学ぶべきことがなければ先へ進むべきです。

どうしても、その場にいつまでもとどまる傾向にあります。
それはどうしてか、わかりますか?

例えば、志望していた大学に受からなかったとします。
「志望校に通えないダメな自分は、もう先まっ暗だ」
こう思うのは

①「外部情報によって育まれた自分」です。

志望校にあれだけがんばっても落ちた自分は恥ずかしい。
親の期待を裏切ってしまった。
中途半端な大学なんか行ったところで、就職できないに違いない。
もう、私の未来はダメだ。

これらは、すべて、ある特定の価値観の中から生まれることです。

一方で、

②「生まれる目的を持ってきた魂の自分」からこの同じ出来事をみると、

ほー、そっちの大学に行くことになったか。
挫折を知ったね、でもそこにいつまでもとどまる必要ないよ。
その大学でどんな出会いがあるのか?
いろんな可能性があるし、楽しみだ。

別に、どの大学に行こうが、予定通りなのです。
魂は、すべて経験をしたくて世にいるわけで
どの大学、どれくらいの収入、どんな人間関係、
それらについて、判断などしません。
好奇心旺盛です。やりたくてやってます。
最後の経験が、死です。

 

このように、一つの経験についても
①「外部情報によって育まれた自分」
②「生まれる目的を持ってきた魂の自分」では

捉え方がまったく異なります。

①の自分は、②の捉え方の声に従っていったら
これまで過ごしてきた枠から出されることになる恐怖
自分と信じてきたものが、なくなる恐怖の2つに怯えるでしょう。

このように2つの恐怖があるからこそ
どうしても、その場にいつまでもとどまる傾向にあるのです。 

 

何かを得るために生まれてきてるわけではない

 

自分で自分をみとめる、受け入れるのにも、何かを得ないと、とか

思ってしまいます。

 

魂の自分からみたら、何かを得ないといけない、という
判断すらありません。 

そして、「自分はこれができるから、存在価値がある」なんていうことは
最初からありません。

だって、「経験したい、体験したいから生まれてきただけ」ですから。
別に、それは何かを得たいから、ではないのです。

自分がもし、素直に生きていることを喜び、
好奇心をもって、いろんなことを体験したいのなら
①の自分は変えなければなりませんね。

ありのままの自分の姿を見てみたい
ありのままの自分を受け入れて素直に生きてみたい
ありのままの自分で気楽に自然体でいたい
何が起こっても、受け入れて前向きに進んでいきたい

そう願うのなら

①の「外部情報で育まれた自分」にどんどん、経験をさせていくことです。

①の自分に体験をさせていけば
これまでいろんな価値観によってあるところで守られてきた自分の痛さや
みたくないところや、いろんなボロが出てくることもあれば
逆に、自分が知らなかった得意なこと、能力、好奇心に気がつくこともあるでしょう。

②の「生まれる目的を持ってきた魂の自分」は
こういうことすべて、価値判断なく、体験したいだけ、なのだと思います。

このように考えると「ありのままの自分を受け入れる」とは
①の「外部情報で育まれた自分」にどんどん、経験をさせて育まれていくことを
②の「生まれる目的を持ってきた魂の自分」が暖かく見守ってる
そんな状態なのではないのかな?と私は思います。

良いことだけ選びたい、価値あることだけ体験したい
得られるのだったら体験してみよう、と
ありのままに体験させないために、
いつまでたっても、情報で育まれた自分自身が、
情報で輪郭を縁取られただけのモヤモヤした曖昧なそういう自分に
自信を持つことができないのでは?

そして、②の「生まれる目的を持ってきた魂の自分」は
たった一つの目的、使命を果たすためなどという
ケチなことは言わないのです。
無駄なことだと思われることだって、②の自分からしたら
無駄なんかじゃない、ということです。
無駄だ!とケチくさいことを言うのは①の情報が育んできた自分でしょう。

このように考えていくと、
「ありのままの自分を受入れること」は
どうしたら良いのか?少しずつはっきりしてきませんか? 

どんな体験をも自分にさせてあげること
うまくいった、成功した、失敗した、なんて
どうでもいいことです。

私は、科学的に正しいとか、根拠がなければいけない、とか
そういうことは、あまり気にしていません。

このような考え方で自分が楽になったり
損得関係なく、素直に好奇心を持つ
ことができたり
あるいは物事に前向きに取り組むことができるならいいな、と
思います。

そして、魂がしたい経験をしたいのに、それを避けていたり、
あるいは、まったく魂の声など無視をして
ずれずれのことを、ずっとやり続けている
それは「何度やってもうまくいかないこと」や症状や病気になって
教えてくれている、ということです。

安易に、ふわふわとしているのではなく、
目の前で起こっていることから淡々と学び
逃げることもなく、ありのままに体験をすること
むしろ地に足をつける方法だ、とも思います。

 

ありのままの自分を受け入れても受け入れなくてもいいと思います。
が、そこを受け入れずに
様々なことができるようになっても
きっと、「もっと、もっと」ばかりが続き
常に自分はまだ、足りてないからもっと得なければならない、と
様々なものに手を伸ばし、飢え、
好奇心とは程遠い、せねばならぬ、あらねばならぬ、ばかりで
心が冷えきってしまうだけ、だと思います。

自分が何を得た、何を身につけた、
他人から見たらどのレベル、なども、
②の「生まれる目的を持ってきた魂の自分」から見たら
ほんとに、どうでもいいことなのだと思います。



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